2025/04/30 10:36


Fumika Akahira Solo Exhibition
5/10 sat ー 5/18 sun

「どこかのたしかさ ここにあるにわ」

瀬戸で作陶される赤平史香さんになぜオブジェをつくるのか、その根源となる話を伺いました。

Q.
赤平さんと初めてお会いしたは5年程前でしたが、当時は花入れや器も作られていたと思います。現在はオブジェを主体に制作されていますが、何かきっかけなどがあったのでしょうか?

A. 
久しぶりに実家に帰省した時に、祖母が庭に植えていた植物が桜の木を一本残して、全て伐採されていたんです。椿やバラ、グミの木、もみじとか、いろんな雑草も混然としていて、それを庭に面した階段に座って眺めるのが好きだった。
景色のあまりの違いに、私にとって悲しい出来事だったのですが、手入れが大変なので納得もしていました。
ただ、その日の夜かな、お風呂に入っていた時、やけにシーンとしていて変に静かだったんです。なんだろうと思いを巡らせた時、海風に吹かれる葉っぱの音や、そこを住処にしている虫の声など、今まで当たり前だと思っていた、自分を取り巻く気配みたいなものがその瞬間に浮かび上がってきたような気がして、改めてとてもショックを受けた。
今住んでいるところに帰ってきて、場所は全く違うんだけど、同じように環境から聞こえてくる音や温度、気配としか言いようのないものに囲まれていることに新たに気付いて、あの場所が無くなったかなしさの後に、どこにいてもすぐそばにあるのだという祝福も感じました。

ただそこにある存在と、この自分という存在が触れた瞬間に発生した言いようのないもの、心の動きというものを確かめたい、感覚の痕跡を確かめたいという気持ちで形をつくっていて、形に起こそうとすると、何かになり始めそうな、うまれかけのかたちが出てくる。そういうものを辿りたいなと思っています。



Q. 
それぞれのオブジェに明確な造形モチーフがあるのではなく、赤平さんを取り巻く世界の気配から生まれるんですね。
赤平さんにとって「うまれかけのかたち」とは何ですか?

A. 
うまれかけのかたちは、この自分を取り巻いている世界との接点であり、出会いの瞬間だと思います。今の自分だったら、これに目がいったとか、何かを感じたとか、その出会いの繋がりから始まるものです。
制作の時に先に立つのは、ただただ自らの日常のことを追っているのだと、そう思います。
粘土であそんでいると、手の痕跡を残した形が残り、その痕跡がなにかになりそうな、ならなさそうな……。
でも自分にとって捨てることのできない、気になるかたちが生まれてくる。
そんな形に強く惹かれていて、それを言葉にすると、うまれかけのかたちなのだとおもいます。
この言葉は、お世話になっている先生から贈られた言葉で、自分でも腑に落ちて、使わせてもらっています。

↓ 幼少期から集めているという収集物


Q.
赤平さんは幼い頃から小さなものを収集されていますよね。これらは制作の手がかりになっているのですか?

A. 
収集物は、形としては拾って箱やなんかに収めてコレクションしているもので、直接制作の手がかりにしようとはしていないのですが、発見した時の感動だったり、改めて触れた手触りだったり、物から触発された感覚が自分の中に溶け込んでいて、土を触る時にそれが感覚を辿るためのひとつの道標になっていると思います。
散歩している最中とか、雑然とした中にある何かの一点がめちゃめちゃ気になってしまう瞬間がある。ワッ!見つけた!と、思わず手を伸ばすような時の感覚が、ものを作るときに作用してくるんです。

↑ 平面作品  /  ↓ 立体作品

Q.
平面と立体のオブジェを制作する時に、考えていることの違いはありますか?

A. 
粘土は少し力を加えるだけでも形をつくってくれるので、自分の中の、輪郭を持たない感覚を自然と外に出してくれます。
立体のオブジェを作るときは、何かを拾っていた時の感覚で形を探っていこうとしている気がします。

平面の小さいパーツはもう少し手遊びの延長でつくっています。この小さい欠片は、明確な意図を持たないように、ただ気になる形をたくさんつくって、たぶん今までの触れてきたものから触発されているように思います。

平面をつくりはじめた当初は、気になるパーツを収集物をコレクションするみたいに並べてみたことがあって、その時、その群れが何か大きな気配を纏ってくるように感じはじめたんです。

パーツをたくさんつくって、土の版の上に置いてみて、そこから触発されてまた新たに小さい欠片を置いて、自分が気持ちいいと思ったところで終わりにしてます。

* photo kana kurata

平面と立体のオブジェでは、作るときの自分と作品との出会い方が違うのかも、と思っていたんですが、豊田市美術館で今回のLOOK撮影をした時、立体を上から見ていた瞬間、立体の作品も平面の作品のように感じた瞬間があったんです。

周りの環境も取り込んで、焼いて生まれたそれぞれの群れがひとつの作品になっているようで、それは平面の作品をジッとみて感性を働かせるような、そういう感覚が生まれておもしろかったです。


↓ 平面作品に並べる小さな陶のピース


撮影の日も、普段はうっとうしいちっちゃい虫の群れが光を受けてうつくしく輪郭をかたどったり、木陰闇の雑然とした草葉の合間につるんとしたどんぐりをみつけたり、落ちている犬用の?お菓子のかけらに、ここをワンちゃんと散歩しにきていた人がいたのかもと想像したり、散り始めた桜の幹で生きているウメノキゴケの硬い感触にキャッキャと喜んだりなんかする。
そんな程度のちいさいことがとても喜ばしい。
ちいさく、しかしなんと偉大な日常。

* photo kana kurata


いつからか覚えていない時からしていた、そこに落ちているものをひろうあそび、その時に発生していた、みつけた!というようなするどいかがやきが、いまは生活のなにげのないふとした瞬間にあらわれていて、そういう断片を土を通して追いかけているんだと思います。

やきものはおもしろくて、わたしの恣意的なかたちを、窯の持つ力で、自分よりも少し遠くの位置に移行させてくれる。
焼けて出てきた時、自分ではつくれない余白が発生していて、それにまた反応してあそびはじめる。
またあのかがやきが待っている。
そんな気がしている。

去年の秋頃に、腰と背中の骨を折って、3ヶ月弱寝たきりで過ごしていたことを思うと、ただの日常動作でも、動けることがこんなに嬉しいことはないな、と改めて実感もしていて、なにげなさの尊さがより一層際立っています。

* photo kana kurata


撮影協力 : 豊田市美術館