2026/10/31 21:36


Interview - 美しさとは

MATOYA:吉田さんが書籍『C point(C点)』を出版されてから約2年が経ちます。本の中でも美しさについて書かれていましたが、その後、考え方に変化はありましたか?

Yoshida:『C point』を出してから、美しさとは何かという質問をたくさんもらうけど、やっぱり言葉にはできないのよね。

でも、美しさとは何かということについては、以前より考えることが増えた。一つは、エネルギーの大きいものに人は心を動かされると思っていて。
例えば人がつくったもので言えば、工芸のような思いや作業密度の高さ、アートのような感覚的密度の高さを感じるものがある。
自然界で言えば、滝の流れや地震のような大きなエネルギーを感じることがある。

エネルギーの大きいものに人間がぶつかると心が動く。その動く方向の一つが、たぶん美しいと思うことなんだろうなと。怖いとか、嬉しいとか、悲しいとかと同じで、心がガッと動く反応の一つに、美しいという感情があると思っている。

そういう意味では、美しいという感情は僕の中では結構危ういもので、怖いという感情に近いのかもしれない。自分の知識では処理できないものに出会ったとき、怖いと思うのか、美しいと思うのかは紙一重なところがある。そういう心が揺さぶられるような力を持つものに対して、美しいと思っているんだろうね。

僕は比較的、工芸的な美しさはわかるけど、自分がそっちに近づこうという意思はない。どちらかというと、偶発的な部分があるものを面白いと思っていて。偶発性も、100%自然に委ねてできあがるものなのか、30%委ねるのか、その間を取るのか。その加減に対する好みが、作家それぞれのやりどころなのかなと思っている。


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MATOYA:吉田さんの作品は縁の薄さが印象的ですが、そこに美しさを感じているのでしょうか?

Yoshida:縁の薄さには、僕の中では繊細とか、儚いとかっていうイメージがある。でも、僕がろくろを挽いたときのちょっとした歪みは、厚く挽くと出なくて、ピシッとしちゃう。薄くしていけばいくほど、ろくろのズレが現れてくる。

薄くすることが目的ではなくて、より僕のやりたいことのコンセプトみたいなものが、はっきり見えるようになるのかな。

結果的に、そこに自分の個性が現れると思っていて。その個性をどう捉えるかも、作家によって変わってくると思う。

変わったものをつくるというのは、考え方の好みや思いつきを個性と捉えられることが多いけど、僕はそれはジャストアイデアなだけだと思っているんだよね。そういうアイデアを何度も出し続けられる人がいたら、それが個性なんだろうと思う。

でも僕が興味があるのは、どうしても僕がつくるとこうなっちゃう、という部分なんだよね。こういうものをつくろうとしても、結局こうなってしまう。自分が消そうと思っても消せない、本人の痕跡みたいなものこそが、最後に個性として残ると思っている。だから僕のつくるものは、シンプルな形が多い。
それを続けていくと、自分の癖が見えてくる。

僕がやりたいのは、過去につくったものから未来につくるものまで並べたときに、少しずつズレていく点を線で結んでみること。そこに、つくる側としての興味がある。

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MATOYA:吉田さんにとって、ろくろを挽くという行為は、どのようなものなのでしょうか?

Yoshida:僕にとってろくろは表現するためのメディアではあるけど、結局は技術的なものであって、やればやるほど上手くなっていく。

生の感情をそのまま手が表現してくれるといいと思っているけど、僕のつくりたい美しさのようなものを求めると、ろくろの技術は必要になってくる。

今でもろくろを挽くたびに少しずつ上手くなっている。死ぬまで挽いていたら、その直前にベストなものがつくれると思っているし、その集大成としての作品がすごく楽しみ。

何より、ろくろを挽いているときが一番楽しい。

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MATOYA:ろくろを挽くとき、あらかじめ完成形を思い描いているのでしょうか?

Yoshida:粘土任せで自然に出てくる形の方が、自分の想像よりも何歩か先にある可能性を秘めている。

僕がつくりたいものは、結局、自分の想像を超えられない。だから、そこだけに執着すると、100点満点の95点くらいまでは狙えるかもしれないけど、その辺りで止まってしまう。

それよりも、成り行きに任せてみる。粘土が上に伸びたからもう少し伸ばしてみようとか、伸ばしすぎて少し変だと思ったら口の形を変えてみるとか。そうしていると、思いがけない形が生まれることがある。

1000回に1回くらいかもしれないけど、そういうラッキーパンチが打てることがある。それが自分の中で100点を超えて、105点、106点のものになってくれるんだとしたら、その方がいいじゃん。

薪窯というと、自然に委ねるイメージがあると思うんだけど、炎に任せることで生まれる面白さと、僕がろくろでやっていることは、実はそんなに変わらない。僕はそれをろくろでやっているという感じ。


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MATOYA:ろくろを挽く際に、ステンレスのコテを使われていますが、どのような意図があるのでしょうか?

Yoshida:ステンレスのコテは、どちらかというと仕上げのために使っている。僕はあまり自分の手跡を残したくなくて、指跡が残りすぎると情報過多な気がするんだよね。完全に消したいわけではないけど、自分がつくりたい形に対して、少し整理するような感覚で使っている。

ただ、どの程度残すかは、つくりながら変わっていく。たまたま残ったろくろ目がいいと思うこともあれば、次につくったものでは同じくらい残っていても気持ち悪く感じて、全部消してしまうこともある。

つるっとしたものも好きだし、ろくろ目が残っているものも好きだから、どちらがいいということではない。一つひとつの形やリズムを見ながら、これは残してもいい、これは消した方がいいという判断を、その場の感覚でしている。

それに、釉薬を掛けると雰囲気もずいぶん変わるから、今はある程度ろくろ目が残っていても許容できるようになった。

ここ1、2年くらいの変化なんだけど、昔より少しだけ、自分のろくろが嫌いじゃなくなってきた。以前は手跡が残ることを嫌っていたけど、今はそこまで気にならなくなった。

30年近くやってきて、ようやく自分のろくろが前よりいいと思えるようになってきたのかもしれない。


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MATOYA:吉田さん自身が使いたいと思う器には、どんな基準がありますか?

Yoshida:ぱっと見の印象もあるけど、重さは結構大きいかな。軽すぎるものはあまり好きじゃない。見る分には嫌いじゃなくても、実際には使わなくなってしまうことが多い。逆に重すぎるものも、結局手元には残っていない。

独立したばかりの頃は、どうつくればいいのかわからなかったから、薄ければ薄いほどいいと思って、ペラペラにつくっていた。でも、なんだか気持ち悪いんだよね。

その頃、器好きのお客さんに「君の器は持ち重りが悪い」と言われたことがあって。持ち重りって何ですかと聞いたら、持ったときの重さの印象がおかしいって。「薄いだけで何もない器は欲しくない」とも言われて、そのときは腹が立ったけど、言っていることは至極正しかった。

その人はお茶をやっている人で、こんな器でお茶を飲もうとは思えないとも言われた。当時はお茶に興味がなかったから、あまり理解できなかったけど、自分で茶碗をつくるようになって、その意味がよくわかるようになった。

手に持ったときに気持ちいい大きさや重さってあるじゃない。大きければいいわけでも、軽ければいいわけでも、重ければ安心するわけでもない。いろいろな条件があると思うけど、自分で茶碗をつくるようになって、自分にとっての手で感じる気持ちよさが、昔よりずっと明確になってきた。

だから僕にとっては、使いやすさというより、持ったときの印象が大きいんだと思う。


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MATOYA:3年前に読んでいる本を伺った際、『日本人は思想したか』を教えていただきました。僕も最近になってようやく読み始めたのですが、今、吉田さんが関心を持っていることや、読んでいる本があれば教えてください。

Yoshida:基本的にはそんなに変わっていなくて、日本の古い宗教観や文化人類学に関するものが多いかな。

結局、美しさとは何かを知りたいんだと思う。でも、自分にとっての美しさの基準は自分の中にしかないから、それを知るには自分自身を理解するしかない。今さら自分探しみたいで恥ずかしいけど、自分の興味がどこにあるのか、どんな考え方に共感するのか。本を読むことで、少しずつ整理できる気がしている。

面白いと思う本もあれば、全然面白くないと思う本もある。それも含めて、自分が何に興味を持ち、何に共感できないのかがわかる。自分のことを理解するために、他人の言葉を借りているような感覚が大きいかな。

中沢新一さんや梅原猛さんの本も読むけど、梅原さんの考え方は比較的理解しやすい。仏教的な世界観が強くて、何かを簡単に切り捨てない優しさがある。

父方の本家が福井の古いお寺で、小さい頃から祖母に仏教の話を聞かされていたんだよね。だから梅原さんの本を読むと、幼い頃に聞いたことを今になって思い出すし、自分に馴染みがあるから腑に落ちる部分もある。

僕自身は神様や仏様に救いを求めているわけではなくて、宗教も哲学の一つのジャンルくらいに捉えている。仏教思想のすべてに納得できるわけではないけど、自分の考えを整理するヒントにはなる。



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MATOYA:吉田さんが考える「普遍的な美しさ」とは、どのようなものなのでしょうか?

Yoshida:昔はもっと「普遍的な美しさ」みたいな言葉に惹かれていたんだよね。そんなものがあったらいいじゃん。でも、それが何なのかと聞かれたらわからないし、そもそも存在するのかどうかもわからない。

今は、普遍的に美しいかどうかは、自分が決めることではないんだろうなと思っている。太古の昔から未来永劫まで、すべての人が美しいと思うものがあったら、それは普遍的と言えるかもしれない。でも、僕はまだ50年くらいしか生きていないし、その中で見てきたものが普遍的かどうかなんてわかるはずがない。

だから、自分の興味を突き詰めていく方がいいんじゃないかと思うようになった。

例えば、100年前の人が美しさとは何かを考えて深く掘り下げていった先と、僕が今、美しさについて考えて辿り着く先は、きっと違う場所なんだと思う。でも、同じような深さというか、同じ層まで潜っていくことはできるんじゃないかと思っていて。

到達する場所は違っても、そこには何か共通するものがある気がする。その深さや共通するものの集まりを普遍的な美しさと捉えるなら、自分にも可能性があると思える。自分に都合よく解釈しているだけかもしれないけどね。

今は昔よりも、美しいとされるものに触れる機会が圧倒的に増えている。でも、それは誰かが美しいと言ったものを、美しいものとして目にする機会が増えたということでもある。そうなると、それが本当に自分にとって美しいのかを考える必要がなくなってしまう。

もちろん、それでもいいと思うんだけど、僕は美しいものをつくることで生きている側の人間だから、一度疑わなきゃいけない。自分にとっての美しさとは何なのかを考え続けなきゃいけないんだよね。面倒くさいけど、しょうがないから一つずつ組み立てていくしかない。


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MATOYA:長く制作を続けるなかで、美しさに対する考え方や、ものづくりへの向き合い方は変わってきましたか?

Yoshida:自分にとっての美しさが何なのか、今でもよくわからない。それがわかったら、もうつくらなくて済むんじゃないかな。

ただ、わかったと思ったところで、またその先が見えてくるんだよね。ようやく辿り着いたと思ったら、なんだ、もう一つ穴があるじゃないかって。そこまで行くと、また次の穴が見えてくる。その繰り返しで、どこまで続くのかもわからない。

それでも、わからないなりに続けていれば、少しずつ見えてくるものはあると思う。

最近、ろくろが少し上手くなったと感じるのも、技術だけじゃなくて、以前より目が良くなったからだと思う。視力じゃなくて、形の持つ意味が昔より見えるようになってきた。

例えば、他の人が見たら何も違わないような線でも、自分にとってはこっちの線じゃなくて、こっちの線なんだという判断ができるようになってきた。でも、その線を出そうとすると、今度はろくろの技術が足りないことに気づく。

だから、また技術を積み重ねていくしかない。それができるようになれば、次の段階に行けるかもしれないし、違うと気づいたら、また別の山を積み始めるしかない。地味なことだよね。

昔はもっと力が入っていたと思う。美しいものをつくるんだ、普遍的な美しさを求めるんだ、なんなら世界をひっくり返してやる、みたいなことまで考えていた。

でも、世界はひっくり返らないし、普遍的な美しさもわからない。美しいものはつくりたいけど、それが何なのかもよくわからない。

だから今は、淡々とつくり続けた先に何かがあるのかなと思っている。ある日突然上手くなることなんてないから。

僕は僕が見たい世界をつくるためにやっている。それが結果として美しいものになればラッキーだし、美しくなかったら残念だったねっていうだけのこと。

Naotsugu Yoshida Solo Exhibition
2026. 11.7 - 11.15